決戦はヒカリモノ?

kohya_hibiki2012-05-11



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多分に個人的な感覚もあるかと思いますが、決戦の意味について書きますね。

文献ではなく実際に神社巡りをしていく内にわかってきたことが1点。

神社の祭神が強制的に変更されたり消されたりした集中的な時代が3つあること。


律令国家成立時

明治維新

第二次世界大戦


3つの中で最も大事なのが①です。

白村江の戦い以後、徐々に唐式の律令国家制度が導入されるようになりましたが、急激に為されたわけではなく徐々にです。

現在の歴史学では大きな誤解を生むような”大和朝廷”という書き方が一般的ですが、日本において中央集権思想が始まったのは、白村江の戦い以後なので注意が必要です。

一般的に言いますと現代日本人は中央集権思想しか体験する機会があまりないので、連合国家とか、連邦制、共和制の感覚は少し薄くなると思います。その結果、民主主義精神の理解も非常に薄くなっていると思います。

邪馬台国という時、ほとんどの方が女王卑弥呼が日本をコントロールしていたと妄想しがちですが、それは当時の社会体制や宗教意識からはあり得ない話です。

スメラ(皇)という語が昴からも導き出されるように、あるいは神鏡というものが自分の写し鏡、大いなる君から生まれてきたものであると認識する時、神と人と皇が、かなり近しい存在であったことが伺えます。

つまり、そこには中央集権思想というものはなく、各部族の部族長が代表や皇族を選出し合い、円卓のテーブルで時代の皇(スメラ)を決定していたというひとつの社会体制が浮かび上がってきます。

これは完全に都市国家ポリスの連合体であり、共和制ローマに近い形の社会体制になります。共和制ローマは、より民主主義的なケルトフェニキアを吸収しながら最終的には帝政ローマへと脱皮していきましたが、この変遷は日本においても同じです。

フェニキアがローマに敗北した最大の理由が民主主義が徹底されていたからだという見方が一般的です。ヨーロッパの古層・ケルト人たちも民主主義的性格が強いため団結してローマに対抗しなかったので徐々に駆逐されていったとする見方が最も説得力があるでしょう。

これは日本における白村江の戦い以後における、大和朝廷蝦夷の戦いにおいても同じことが言えます。つまり、圧倒的な戦力を持ちながら唐・新羅軍に大敗北を喫してしまったその原因を共和制の社会体制にこそあると判断してしまったのです。それが以後の律令国家建設の決定的な国家思想のベースになります。

その思想の元で、万世一系や都が畿内にあり続けたということを主張しなければならなくなりました。『記・紀』の辻褄が合わない箇所はこのようなところからきています。



”決戦”の意味を知ってもらうために、上記の思想的理解が一点。②と③は同じことが繰り返されています。



また、①を理解する上で欠かせないのは、天智・天武大戦。この二人を巡る内戦のバックボーンを魂で理解してくことが欠かせません。

要するにこれは東日本と西日本の絶え間ない争いの結果なのです。ひとつの指標として倭国と日ノ本国という尺度を用いて説明していました。その分岐点のひとつが関が原であり、南宮大社なのです。

この1300年の時を越えた思想的課題の解を導くために2,3年ほど濃いフィールドワークをやっておりましたが、最終的に辿りつきましたのが、エビスさん。そして天照文化圏と大国主文化圏の誓約という地点でした。

つまり、私たちは1300年間中央集権思想(帝制)と地方主権思想(共和制)の内戦をしてきましたけれども、古代大和誕生時にその大同団結がなされていたということです。

大和という言葉は、まさにその2つの思想の誓約によって生まれた言葉です。それが国常立(国が常しえに立つ)という神を生み出した私たち先祖の想いです。

それがなぜ今、必要なのかと言いますと、現在でも世界各地で戦争や争いごとが続いていますけれども、古代はもっと戦乱が続く世の中でした。そのような世の中でシルクロードの東端にユーラシアの多くの民族と宗教を統合し、大同団結した大和という国家ができたこと自体が奇跡的なのです。古代にできたのだから今、できないはずはありません。

国連というものをイメージする時、日本人はほとんどの方がこの古代大和の大同団結の感覚で捉えています。

世界の国々がみんな仲良く話し合って問題を解決すれば良い、というのは非常に日本人的な感覚です。世界の人たちから見れば常識からかけ離れています。通常は、戦争に勝った戦勝国が主導権を握る、もしくは権謀術数で多数決において勝ったほうが主導権を握るというのが普通の感覚です。

多数決で負けたものの意見も聞こうというのは、多分に”昴・スメル”の感覚が入ってます。世界で言えば、ケルトフェニキアの末裔の人たちが”昴・スメル”の民主主義的性格を維持しているといっても良いです。

江戸時代末期に日本にやってきたヨーロッパの人たちが幕藩体制を自国に報告する際、説明の仕方がわからなかったという話もありますが、大きい武将(徳川)が中小の武将を武力でコントロールし、皇から征夷大将軍を任命されているという権力の2重構造は他国の人たちには理解しがたい社会体制です。

なぜならそれは彼らが失った共和制という社会体制だからです。その後ヨーロッパの帝政の社会体制を移入し、明治維新となっていくのですが、江戸末期まで信仰されていた祓戸の女神たちも一気に姿を消しました。天武朝においても天智朝まで行われていた祓戸の国家祭祀は廃止されました。

どちらか良くてどちらかが悪いということではなくそういう時代であったということだけだと思います。

それを今、見直さなければいけない理由は、そういう時代に差し掛かっているのです。それが【アセンション】です。スコットランド独立のことも先日書きましたが、世界が一緒になって共和制へと回帰していく時代になってきているのです。13というのはマヤの聖数です。律令国家が導入され始めたのがちょうど1300年程前です。そして日本において権力が発生した頃とされているのが2600年前です。皇紀2600年の石碑を神社で見かける人も多いと思いますが、第二次世界大戦皇紀2600年を掲げて戦いました。

アセンションという思想は、西洋人の千年王国という思想が出元です。それが正しいかどうかは別にして、私は大局的にずれてないと思っています。西暦0年からこれまでの時代を魚座の時代と呼びます。キリストが魚(イクトゥス)で表されるからです。それが終焉してこれからみずがめ座の時代が始まるというのがその大局的な思想になっています。

資本主義を引き摺って自然を破壊し続けるよりも、よほど有意義な思想であると私は感じます。とにもかくにも現状肯定ではなく未来志向であることが人間にとって最もポジティブな生き方であると思います。

西洋人自身が魚を捨てて新しい時代に向かおうと言っているので、それは結構、勇気のいることであると思います。そういう時代に日本人に何ができるのか。彼ら彼女らと同じことをする必要はありません。私たちの国には他の国にはないオリジナルな過去があります。それが古代大和。それを私たちひとりひとりが思い出すだけで世界の中で強烈なオリジナリティを発揮できます。

そのために聖地巡礼をやっています。まずやらなければいけないのは東と西の統合。鳥羽です。

私たちの先祖が争って争って争って出した答えが”笑い”による東西統合です。ナンクンとは基本、エビスさんのことです。

しかし、カニレジェンドさんが言っていたように【エビス=女神】説がかなり濃いです。

そこにミブ・ミヌメ・ミノ・・・、先日から申し上げている女神水龍たちが関わっています。

龍神が住む河に鉄器を投げ入れると祟りがあるという地域も未だに存在します。互いに相容れなかった鉄と水。

それは共和制・帝政の問題、東洋と西洋の問題、男性性と女性性の問題、東日本と西日本の問題、神と人の問題、原発自然エネルギーの問題、、、etc

現象世界における様々な2元論の問題とも密接に関わっています。古代、グノーシス主義が入ってきていたような時代に2つの主義主張を統合するような巨大な宗教意識が日本にあったということです。

私はそれを縄文ヴィーナスと呼んでいますが、その女神意識を日本人ひとりひとりが取り戻し世界平和に具体的に貢献すする時代になってきているのではないのかなと感じています。


日本人の集合意識が一歩前に進むためには、思想的に開闢させる人たちが必要です。私たちはそのひとつのセグメントとして動いています。

鉄と水の問題を統合すれば、原発自然エネルギーの問題もひとつ進ませることができるという想いがあります。なぜならその問題は根源を辿っていきますと火と水の問題であるからです。

例えば、原発・中央集権・男性上位社会というのは全て『火』のエレメントです。一方で、自然エネルギー地方主権・男女平等社会というのは『水』のエレメントであり、日本の弥生時代の社会体制です。だから私たちは穀物神話を戴く本来の日本人のあるべき姿に回帰すれば『火』を抑えていくことができるのです。

穀物というのは国物です。つまり大国主です。一方で明治期以降のアマテラス信仰というのは政治的に『火』の部分を高められたものでもあります。この大国主と天照がちょうど融合したのが神戸あたり。つまり”Cowベ”、カフベ(甲部)と言っても良いです。

全てはサイグウの笑いから開いていくのです。ユリであり、牛であり、甲であり、、、

サイは細とも書きますが、ウズメも細女とも書きます。以前、天照大神が岩戸から外をチラ見したのはウズメのムチャ振りが原因ではなかったか、ということを書きましたが、やはりそのラインは濃厚であると思います。濃は美濃の濃でもありますし、イヨイヨ(1414・伊予伊予)本格的に太陽へのムチャ振りを考えとかなければと思います。

ミサキ(カラス)がクイナクイナと歩いているのが、何か本当に引っかかっています。

917(足して17)のムチャ振りとはなんでしょうか?

稲(17)を食いな(917)ってことでしょうか。そんな人はいな(17)いっていうことでしょうか。
微妙に滑っているのは鶴と亀がいな(17)いからでしょうか。
そんなこと言いな(17)、それもいいな(17)
【関西弁と標準語で否定形と肯定形になる17】

17時は巳だから蛇。クイナが蛇を食べたのでしょうか。確かにミサキ神に蛇はいませんよね。