濁さえ飲み込む女神性
朝から晩まで他者批判をしていた犬養毅が内閣総理大臣にまで上り詰めたのは、当時の日本社会が清濁両方を許容する女神性を有していたからです。
戦後社会がそうであるように男系の社会は、自分に都合の良い清らかさだけを容認し、濁を排除します。
自分を客観的に見られない人々は清らかさを支持することが“清らかになる”ことだと勘違いしますが、もう少し上の視点て見れば、その清らかさが全く清らかではないことは明らかです。
最も神格の高い女神性が清濁や闇さえも許容するというのはすぐに理解できることだと思います。
世界的“ジンブツ”を多数輩出した戦前の日本。一方で世界的有名人を多数輩出しても“ジンブツ”を輩出できなくなった日本。
これを“有名無実”と言いますが、その有名無実の裏側には女神性の喪失があります。
その女神性喪失の裏側には、いつも言っておりますように哲学的本質を理解できない非常に低いメタフィジカル力という問題が横たわっているのです。
“強さ”は排除から始まるのではなく“受容”からはじまります。
それは自分の濁(闇)を認めるということです。自分の濁を認めるということは“自分が悪者になることも厭わない”、“悪人と罵られても動じない”ということです。
“悪(灰汁)”になっても動じないということは内側に“聖”があるのです。
覚者ではない善顔をしている人たちが“批判をしてはいけない”と言っているのは、批判されると動じてしまうからです。
動じてしまうのは内側に“不動の聖(不動明王)”がいないからです。
こういうことはスピリチュアリティの入り口(基礎中の基礎)ですが、それさえも認識できない方がたくさんいます。
なぜ私たちの先祖が不動明王を拝んでいたのかを理解できてないですし、理解しようともしていないのです。
それが“清らかさ”につながるはずもありません。先祖からの流れは水の流れと同じ。
聖人になるということは“濁”を持って“聖”に向かうということ。それは決して、当たり障りのない言葉だけを連ねて“聖”のふりをすることではありません。
ひとりひとりの真実を見極める素目に全てが委ねられています。