Take a lighten
皆、生きることに精一杯
夢・希望は儚くも失望や絶望へと変わり、ライトサイドはダークサイドへと変遷する。
しかし、人々はその度に自分によって、あるいは他者によって励まされ、強く、しなやかに生きていく。
そのサイクルに意味を求めても何も出てこない。ただそこには“巡り(女神)”というsystemが存在するだけである。
我々人類の根源的な衝動は、“持っていないものを手に入れたい”という衝動。
初めて道具を手にした我々人類の“手”
その手に“愛”というエネルギーは握られただろうか。
否
決して、我々は手には入れてはいない。愛という偶像を求めているだけなのである。いつ終わるともわからない永遠のメビウス。
歴史上には“愛”の人は存在する。しかしそれは、それを手にしたものではなく、手に入れようとしたプロセスが重厚であっただけである。
その存在しえない偶像に対して、あたかも存在するかのように追い続ける姿勢にこそ尊敬すべき哲学がある。
Why dont you go useful street ?
愛すべき対象があって、愛が生まれるわけではなく、求めようとする衝動、知ろうとする意欲によってこそ“愛”という原理が生まれる。
従って、無関心こそが社会の中から“愛”を失わせる根源的な行為となる。
“怒り”は、この“無関心”というものに根をはる厄介なエネルギー。
しかし、それは危険を知らせる明らかなポジティブな反応計。
何かを嗅ぎ分ける動物的本能、愛を求める人間的習性、全てが“無”に帰すだろうという神的意識、、全てひっくるめて、この“くそったれの世界”
美辞麗句ではあり得ない愛すべきこの“泥まみれの世界”
生と死が共存するこの不思議な世界。死のための生なら生きぬほうが“聖”
ただこの世には死して尚、生き続ける偉人たちが存在する。
真のライトサイド
真の清き田の中で
清(スミ)と墨(スミ)というダブルサイドを感じて、、、
角(スミ)を丸めるという行為は神がかりである。
トンガっているのは誰か?夏目漱石の言葉を思い出して欲しい。
明治大正時代から失われた私たちのデモクラシー。国会が作られたのはたった150年前の話。そこにこだわっているのは政治家ではなく我々自身。
自分たちが当事者意識を持ち真剣に未来を話し合えば、そこが国会になる。いつでもどこでも可能だ。ないのは、話し合う場ではなく、単にひとりひとりの“心の準備”だけである。
どんな状態でもいい、完璧になる必要なんかない。皆、不完全であるし、未完成。完全であるかのように見えるのは完璧であろうとする心が生み出す幻影。
皆が持っているダブルサイド、有意義に使ってみませんか?
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