ネガティブデポジット② 〜 愛の不足に対する渇望 〜


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心の奥底に眠る怒りや悲しみ、失望、絶望を溜め込んでいきますと心が閉ざされてしまい普通の感情表現や他者に対する普通の対応ができなくなってしまいます。


常に理不尽な反応を示す親族がいるということで話を頂きますが、その理不尽な親族を生み出しているのは、個人ではなく環境も関係しているとイメージする想像力も必要です。


なぜそういうことを言うのだろう?なぜあんなことをするのだろう?と“責める”ことは簡単です。


ですが、それを自分のこととして“請け負う”ことは難しいです。その状況に耐えに耐えて“請け負わせて頂いている”という『無限の愛の泉』に自分が到達することによってしか、その問題は解決されないのではないかと思います。


距離を置いたり、問題を一時的に見えなくすることはできますが、そのような状況が周りに出てきている方は、『無限の愛の泉』への女神転生を運命として背負っていると考えなければなりません。


私もこのカルマを20代の頃から背負わされ、私は何の問題もない家族環境親戚環境で育ちましたから、当初は“赦し”を提供することは人間として当然できますから、十全な“赦し”を導くことができましたが、数年すると、そのサイクルの中に自分も入ってしまい、その環境を客観視することが難しくなり、当事者として『無限の愛の泉』を渇望するようになりました。


その時、いつも脳裏に浮かんだのは、私が小学生の頃になくなった祖母の姿でした。


子供を8人育てて孫や親戚を合わせると百人くらいいるだろうと思われる親族中に常に愛情と気配りをしてくれていたスーパーおばあちゃんです。そのおばあちゃんの影響もあってか親族の皆が愛情深く優しい人ばかりでしたので、こういう純朴な人達が暮らす地域社会(特に田舎)を守りたいと社会活動を自然と行うようになりました。


しかし、その活動の中でもエネルギーの枯渇を感じ始め、自分が非人間的な領域に墜ちていってしまうのではないかという危うささえ感じました。


でもそうはいっても昨年のHMT巡礼で祖母がなくなった最後の場所近くへ行くことができましたし、全てはつながっていると確信しています。


一体、祖母だったらどうしたのだろう?愛の不足が起こった時、迷った時は考えます。


期待や過去の投影はしないだろうと思考で抑えていた20代、でもそれが奥底に眠っていたと気付いた30代、そしてその魂の刻印さえも日々の実践と高い宗教意識で乗り越えていけるだろうと確信するアラウンドフォーティ、、


北欧のエッダ散文詩ケルティック神話、古代ギリシャ先住民族神話、古代大和ともつながる重厚で深い女神意識