イツルとユツル

kohya_hibiki2010-04-09



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ずっと”金獅子”につきまとわれていますが、おそらくは六甲山の山中の獅子岩の巨石であると思います。

『見たくない・行きたくない』という感じがしているのは、おそらくその巨岩に住宅地が迫っているということ、それがないがしろにされているということ、そしてそれを見ることによって、自分の中のロゴスが、さらに活性化してくるということ、でしょう。

人間は、土地で睡眠をとると、その土地のメッセージを自分でも認知できない深いレベルで受け取っており、それがローカリティ・愛郷心などになっていくのですが、六甲の金獅子が阪神タイガースの虎と重なるのはすごいことだなと思いました。

弓弦羽神社に行きました。神社奥の丘陵は古代、弓弦羽嶽(ゆずるはだけ)と呼ばれていて、この”ゆずるは”が熊野とつながっていて、国譲りともつながっています。




『いづる・ゆづる』の語の中には、鶴(つる)が含まれていて、弓弦羽神社の神紋は、弓に乗った鳥(つる)。ヤタガラスでもあると言われています。




”いづる”は、何かと言えば、泉(または井戸)に乗った鶴、これはイコール瀬織津姫ですね。”いづ”が伊豆や伊都国につながり、”ゆづ”が湯や柚子につながるのは深い意味があります。”も”は【雲(空を隠す)、藻(海を隠す)、喪(命を隠す)】などを意味し、ヤマト言葉では雲隠れ、すなわち死を意味しますから、イヅモがイヅルの逆の語であるということは容易に想像ができます。


このようにヤマト言葉には、現代人が想像だにしない深い深いメタファーと哲学的思考が横たわっています。


私たちが、なんとなく使っている”譲る”という語は、弓と鶴の合成語なんですね。


弓が何かと言えば、神→人、人→人、人→神などのエネルギーの方向性を表すメタファーであり、射抜かれた場合は、心と心がつながる、気のつながり”きづな”ができるわけです。”つながり”は、綱であり琴引きにつながります。国譲りと国引きは、”押す”と”引く”の関係にあります。弓で射って、綱で引く。弓を射ることと綱引きが神事になるのはこういう理由があります。


この”きづな”を裏で切ることを”裏切り”と呼びます。また、白羽の矢が立ったのに、とぼけることをシラを切ると言います。そういう状態を見ると皆、シラケます。

白羽の矢が立って、その”シラ”を以って地域を統率することをシラスと言います。スは”統べる”のスです。”知る”は、この”シラ”からできた語であり、ヤマトの世界では、知ることと理解することは同じことを意味しました。

”白羽の矢”を理解するということは、その意味(裏に横たわるメタファー)を理解するということであり、意味を理解しなければ”白羽の矢”が見えないのです。

チベットでも、次期ダライ・ラマには”白羽の矢”が立つわけですけれども、ラマの化身をサーチする人たちの宗教意識が低下すれば即座にメタファーが理解されなくなるので、国が危機的な状況に陥ります。だからこそチベットでは、未だに宗教意識を高めることが多くの人の人生の目的であるし、国の根本原理に据えられているんですね。

このシステムは、日本でも飛鳥時代ごろまでは存在していて、白鳳の大地震で大地が隆起したフォッサマグナ西端に都を移すかどうかでかなり激しい駆け引きがあったと思います。

こういうことを知らずに神社に闇雲に手を合わせていますと、本来あるべき古代ヤマトを知らず知らずのうちに封じてしまっているんですね。日本では万物に神が宿りますから、封じた側にも神が宿っています。

封じた側を恨むのではなく、冷静に状況を分析し、これから私たちがどういう世界を望むのかを共有していければ、その新たな世界に強力な神が宿ります。私たちひとりひとりの光のあて方によって世界は変わっていくだけです。

また、弓弦羽(ゆずるは)と出羽(いでは)はつながっていますし、天津羽羽とアラハバキも同じ文明の中にあります。また、走水神社 (横須賀市)(はしりみずじんじゃ)と走水神社 (神戸市)(はしうどじんじゃ)、走湯権現道後温泉伊予三島・伊豆三島なども、水・湯・ハハキの失われた初期大和朝廷の文化の名残です。

ある時期から人間が神になって民衆を統治するようになりましたが(絶対王制天皇制)、それ以前は白羽の矢が立った大王が天神との媒介を行い民衆を統治していました(一君万民天皇制)。

その境となったのが、律令国家建設であり、記・紀編纂に合わせて名前は出しませんが、大きな古墳や神社が造られていったのです。本来、神の社(やしろ)は、巨大なものではありませんでした。重要はものは神が宿る杜であり、拝殿や境内はそれほど大きいものは必要ありません。必要以上に広大に整備された神社は律令国家の思想を取り入れており、主人公が神ではなく人間であることに注意しなければなりません。


上記2つの統治方法の違いを多くの人が明確に認識できれば社会は、愛と自由のアフロディーテに近づくでしょう。