失われた“健全な”という精神

kohya_hibiki2012-06-20



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戦いは楽しむものであり、囚われるものではありません。これは怒りや悲しみの感情についても同じです。ひとつひとつの【戦い・争い】に固執する人は戦いの絶対数が少ないか徹底的に負かされた体験がない、かのどちらかです。

スポーツでの戦いは、負ければ負けを認めざるを得ません。しかし、スポーツ選手は戦いに固執しているわけではありません。一流になればなるほど戦いを客観視し、自分を冷静に分析する論理的思考を手に入れます。つまり、【戦い・争い】の勝敗に自分のアイデンティティーを置かないということなのです。

愛が充分に満たされていなければ、戦いの“勝ち”の結果に自分のアイデンティティーを重ねることによって癒されようとします。つまり、勝てなかった今までの自分を勝敗の結果によって埋め合わせるということです。しかし、この段階では如何なるスポーツにおいても良好な結果を残すことは出来ません。

如何なる状況においても勝ち続ける人間は、究極的には結果にこだわってはいません。結果を出す前までの自分の精神性にこだわります。勝敗は勝負の前に決まっています。

このレベルの問題は“スピリチュアル”というよりは“スポーツ”レベルの問題です。

“スピリチュアル”はもっと高い意識の中にありますので、ここで書いていることの意味がわからない方は、家に閉じこもってパソコンスピリチュアルをやるよりも外でまず身体を動かして普通、一般の社会の中で結果を出すべきです。スピリチュアル業界は、資本主義社会で適応できなかった落ちこぼれが来るところではなく、資本主義社会を現実的に論理的にアセンションさせていく人たちが集う場所です。と同時に資本主義社会で傷ついた人たちが癒される場でもあります。

資本主義社会でオカルト視された霊能力者たち、資本主義社会で地位・名誉を獲得できなかった者たちが敗者復活戦をする場でもありません。



外国の人と渡り合う時、どうしても問題になってくるのは“信仰”というメンタルな問題です。

日本人以外の民族は全て、自分の国と民族に誇りを持っていますから、普通に“健全な”精神が宿っています。

そこで初めて日本人が異常な状態にあることに気付きます。日本の常識は世界の非常識と言われる所以はここにあります。


精神異常者が精神病を撒き散らして精神病予備軍がそれを積極的に支持するというのがどの業界にも当てはまる日本の現状です。

これを変革するのが“スピリチュアル”であったはずですが今やどの業界よりも酷い精神病患者がメディアを利用した仮想トップに居座り、奇天烈な理論を垂れ流しているというのが現状になります。

私と関わっている人や東京の人たちはそのようなマジックには当然、引っ掛からないですが、地方ではメディア先行で自分の思考パターンを構築している人が圧倒的に多いので、ビックリするほど、まんまと“プロパガンダ”の罠にはまっています。

一般的にメディアで名前が売れている人は“真実”ではなく“汚いことをやっている人”というのが常識です。

名前を売るためには、名前を売る手法があり、その手法自体が“真実”とはかけ離れています。これは普通に考えれば0,5秒で答えが出ることです。真実の人が支持される社会ならばこのような社会にはなっていないですよね。

社会がおかしいのは、皆がプロパガンダを悪用した間違った人を支持しているからです。これも0,5秒で答えが出ることです。

この0,5秒で答えが出ることに対して、問題提議さえしないのが日本社会の現状なのです。

そのために10年以上前からスピリチュアリティ形而上学)をやっていますが地方ではまだ全然根付いていません。

10年前に東京でやっていたことをもう一度、関西でやっているような状況です。本当に骨の折れる作業です。

周りには東京で増殖したおかしなスピリチュアルを本当のスピリチュアルと信じて撒き散らしているセラピストもいます。


女神性とは自分が女神になることではなく、寛容さと受容性を高めることです。このメタフィジカル的な当然の帰結も、おかしな人たちが身勝手解釈をしますと【自分の解放=女神性】というふうになります。3,4年前は【自分の解放=ノンジャッジメント=何でもOK!(人権蹂躙もOK)】、6,7年前は【自分の解放=封印解除=アトランティス】、、、問題の根底は同じです。

そのような女神性を男子が支持するはずもないでしょう。女神性とは神功皇后光明皇后のように争いの時代においても男子の戦いの論理に勝っていく強烈な受容性にあります。”赦し”とは自分が赦されることではなく、インナーチャイルドを癒し、自分とは全く異なる正反対の意見者を赦すことなのです。これは民主主義の基本にもなります。

【戦い・争い】を否定する精神性、ジャッジメントを否定する精神性には女神性は宿りません。ましてやそこにシャーマニズムなども宿るわけがありません。

真の女神性とは巴御前細川ガラシャのように男性論理を受容し、さらにそれを超越するものです。

それが戦前までの日本女性の一般的な精神性であったということを知ることだけで何かが変わるでしょう。

ジャッジメントしない”という理論は、ジャッジされたくない人が編み出した商法です。健全な営業をやっているかどうかをジャッジするのは基本的人権と呼べるものです。その思考回路を奪うことが如何に違法で巧妙なトリックであるかがわかります。


偏見と思い込み、無知とは本当に恐ろしいものです。インターネットで仕入れた情報で自分にもできるだろうと身勝手に判断してしまう“安易さ”、本質を理解せずにこんなものだろうと誤解釈する“軽率さ”、そこに美的精神を見いだすことはできません。


自らの”自由”が認められるためには、正しい社会性を帯びた”自立性と責任”が伴わなければなりません。これがなければ目に見えない”スピリチュアリティ”は新たな社会問題や以前よりも悪い状況を生み出しかねないものです。


知らないことは知らないと言い、できないことはできないと認め、及ばないことには及ばないと宣言する、そんな普通のことができなくなった裏側には、アイデンティティー喪失の裏で“負けを認めたくない”精神が発達し過ぎたことがあげられます。


“負けるが勝ち”の日本の伝統的精神が育った背景には、負けても受け容れてくれた家庭・地域社会という隠喩があります。そこが”母性”であり、”女神性”でもあります。如何に逆説的な現実が日々創出されているか、この文章を読んで頂ければおわかりになるかと思います。

負けても受け容れてくれる母系社会を再生するのが“スピリチュアル”の役目であるはずですが、いつまで低い現実の中で彷徨っているのでしょうか。

高い理想に共鳴することは今日からでもできます。“負け”を認め、自分の正確な位置を客観視すれば良いのです。

とことん負けてとことん思い知る。後は上がるだけです。それがどうしてもできない人は、スピリチュアルというよりはまずスポーツをすべきでしょう。小学生でも感得できる精神性です。



地位と名誉に固執する人の言葉の端々には地位から転落したくないという“怖れ”が漂っています。

全てを捨て去った人はその“怖れ”を見抜くことができます。




真実の日本社会へ


そして、正しき正道の未来へ