確かな地盤

kohya_hibiki2012-07-02



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HMTの目的は、楽しく巡礼をしながら、それが結果的に社会の役に立っているというラインです。

誰かひとりの宗教意識やお役目によって流れが決まるわけではなく、社会で今、何が必要とされているのかの必要性によって方向性が決まります。


結果的に社会の役にたつためには、当たり前のことですが、継続的に発展していけるための経済的地盤を確立しなければなりません。

ただ巡礼をするだけで、経済的価値の発生しないものは単なる趣味レベルのものであり、やってもやらなくても誰にも影響を与えない“スピリチュアルごっこ”レベルのものです。

電力各社は50名〜100名ほどの広報部を抱えており、朝から晩まで「原発が正しい」ということを広報しています。そのような社会状況の中で巡礼者が100人、神社の情報を発信したところで1名の電力会社社員の広報にさえ勝てないのです。本気ならばこの現実を直視してください。この現実を直視できずに祈りだけしている人はすべて”祈りごっこ”をやっているだけです。


祈りは大切なものですが、それだけでは社会に影響を与えていくことは出来ません。神社の社殿が常に新しく保たれるためには、経済的価値の視点がなければ困難をきわめます。


仏教が入ってきた後は、仏像に金箔をはり、その神々がいかに崇高であるのかを権力主義者たちは示そうとしました。

神道においては偶像崇拝がないので式年遷宮というかたちで神威(みいつ)を示してきました。


祈りを形にかえるためには、現実的行動と経済的価値が必要であり、それが行き過ぎると権力主義者に乗っ取られてしまう、これが人間社会で繰り返される負の連鎖です。そういう意味において古代から連綿と続く日本神道の力は強いです。それがあるからこそ現存する世界最古最長の王朝が日本で生まれ継承されてきているのです。


真のアクエリアスの時代においては、一般市民が公(おほやけ)の仕事とされていたものを自らの高い意識の中で自発的に担っていく社会起業的行動が欠かせません。しかもそれを健全な経済循環の中で達成し続けるという高い哲学性と能力が求められるのです。純粋無垢な純白なスターゲイトと現実的に損益分岐点をはじき出し健全経済を保っていく【信仰と経済合理性】というこれまで相反するものとされてきた2つのエネルギーをひとつの脳で達成しうるもの、それがスターチャイルドであり、日本人が目指すべき方向性でもあります。


原発の問題とはすなわちヒト・モノ・カネを一極集中させてきた中央集権思想の問題でもあり、その思想に基づき電力供給が一社に独占されている問題でもあります。この時代的本質的テーゼに気付かずに電力会社だけを攻撃するのは、むしろ原発推進者ではないかとさえ思います。


このように中央集権思想を対象化できるのは橋下市長、河村たかし氏など国内に10名にも満たない程しか存在しないので、中央集権思想がなくなることによってその先に何があるのかを想定すらできないのは当然のことであります。


全国的に未だそのような段階でありますから、皆の想いを形に変えて、できるだけ長く太く元気に社会的意義の高い活動を潜在的集合意識に基づいて実現可能せしめるというのが“確かな地盤”となります。


このような20年にも及ぶ思想的活動と10年に及ぶ現実的行動を表面的に模倣し、擬似活動をしている人もいるので、とても困っています。

思想的に中央集権思想から解脱し、分権社会起業的思想に突入している人なら模倣もある程度は許容しますが、それを達成しないままでの模倣は官邸主導のマスコミ操作となんら変わりのない“センゴ”構造であるので、是非ご遠慮頂きたいと思います。


我々がすべきことは、地べたをなめ回すぐらいの努力と気概によってしか成し遂げることができない困難を極める時代変革です。


家でゆっくり“スピリチュアルごっこ”で明治維新直後から始まっている賄賂政治を覆すことなどできるはずもありません。

まず何をすべきかというよりも前提となっている現実を正しく理解している人が少な過ぎます。


社会起業に関してもアメリカでよく言及されているから興味を持っているレベルの人たちばかりで思想的になぜ今、日本にそれが必要なのかを答えられる人はいません。


そもそもMBAをファッションか何かだと思っている人が多く、企業経営の至上命題が売上原理主義に陥っている経営者も少なくありません。


このことも原発と密接に関わっており、至上命題が自分以外の誰かではなく“自分(会社)を救うことが社会のためになる”というこじつけにも似た自己正当化になっています。


そういう人たちは、”自分の食べるものさえ制限し、自分よりも貧しいものたちに分け与えていた”という戦前以前の美しい日本人の在り方を思考的にも感覚的にも知らない方なのだと思います。


私はそういう人間が“私は日本人です”と言っている時、強い違和感をおぼえます。自分たちの先祖の歴史を知らないとはなんと恐ろしいことでしょうか。


例えば、大飯原発の再稼働に関しても“生産がストップしてしまえば会社が潰れる→日本経済が縮小する→原発再稼働は大義”とする産業界と“原発が再稼働すれば事故が繰り返される可能性がある”とする市民側との押し合いへしあいが続いており、企業献金があるがゆえに政治家は政治的に産業界に傾かざるを得ないという政治力学は非常に冷徹に市場原理に基づいて推移しています。

そのような中から思想的に成熟した人たちが次々と出てくれば社会は変わりますが、反対だけして自分たちはなんの責任も自立した行動も持たない段階では、病的ですが自立した行動をしている産業界を凌駕していくことは出来ません。

何度も言うようですが、原発の問題は、上記のような論理性を即座に理解することができない日本国民全体の非哲学性にあり、丸1日この視点で生活してみるとあらゆるところにその萌芽を確認することができるのです。

私も脱原発運動を最初の頃は支援していましたが、彼ら彼女らの精神構造が後期スピリチュアルに似てきているところがひっかかっています。純粋に頑張っているママさんや若者は応援してあげなければいけません。


そもそも日本のスピリチュアルは911後にポスト資本主義を目指す人たちが東京に集まってスタートしましたが、2、3年後にその底堅い思想を逆手に取ってマスコミと社会変革思想を持たない敗者復活戦の人たちが大挙として参入し、初期の頃の高い社会的意義はむちゃくちゃに破壊されましたが、脱原発運動もそれに似てきています。

冷静な社会変革が目的ではなく、認められなかった自分の鬱憤を晴らす後期スピリチュアルのような場になってはいけないと思います。

それはまるで初期高野聖が高い理想で社会に求められたことに反し、後期高野聖が目的を失った犯罪者の温床になったことと似ています。

高田馬場西荻窪ポエトリーリーディングをやっていましたが、徐々に詩の質も低下し、烏合の衆になったこととも似ています。

結局のところ、底堅い思想で作られた文化に集まってくる二番煎じの人たちのところに集まっても何もならないのです。しかし、日本人はその何もならないことをやってしまう傾向が非常に強いです。

それは本質を見ずに形を見るからです。この“膜”を取り払うことだけが日本の未来を確かなものにします。

それが私にとっての祈りと行動です。




脱原発も後期スピリチュアルも原発推進派もポエトリーリーディングも大まかに言って全部、構造が同じです。

自分たちの想いを晴らすことが主目的になっています。そこに日本的なものがあるとは言い難いです。



問題の根源はひとつです。魂が開いた人の元に力が集まり、社会が開かれていくためには、ひとりひとりの魂が開き、正しい選択が為されなければならないのです。