Take a lighten

kohya_hibiki2012-08-23



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皆、生きることに精一杯

夢・希望は儚くも失望や絶望へと変わり、ライトサイドはダークサイドへと変遷する。

しかし、人々はその度に自分によって、あるいは他者によって励まされ、強く、しなやかに生きていく。

そのサイクルに意味を求めても何も出てこない。ただそこには“巡り(女神)”というsystemが存在するだけである。


我々人類の根源的な衝動は、“持っていないものを手に入れたい”という衝動。

初めて道具を手にした我々人類の“手”


その手に“愛”というエネルギーは握られただろうか。



決して、我々は手には入れてはいない。愛という偶像を求めているだけなのである。いつ終わるともわからない永遠のメビウス

歴史上には“愛”の人は存在する。しかしそれは、それを手にしたものではなく、手に入れようとしたプロセスが重厚であっただけである。

その存在しえない偶像に対して、あたかも存在するかのように追い続ける姿勢にこそ尊敬すべき哲学がある。



Why dont you go useful street ?



愛すべき対象があって、愛が生まれるわけではなく、求めようとする衝動、知ろうとする意欲によってこそ“愛”という原理が生まれる。

従って、無関心こそが社会の中から“愛”を失わせる根源的な行為となる。

“怒り”は、この“無関心”というものに根をはる厄介なエネルギー。

しかし、それは危険を知らせる明らかなポジティブな反応計。

何かを嗅ぎ分ける動物的本能、愛を求める人間的習性、全てが“無”に帰すだろうという神的意識、、全てひっくるめて、この“くそったれの世界”


美辞麗句ではあり得ない愛すべきこの“泥まみれの世界”


生と死が共存するこの不思議な世界。死のための生なら生きぬほうが“聖”


ただこの世には死して尚、生き続ける偉人たちが存在する。


真のライトサイド


真の清き田の中で


清(スミ)と墨(スミ)というダブルサイドを感じて、、、


角(スミ)を丸めるという行為は神がかりである。


トンガっているのは誰か?夏目漱石の言葉を思い出して欲しい。

明治大正時代から失われた私たちのデモクラシー。国会が作られたのはたった150年前の話。そこにこだわっているのは政治家ではなく我々自身。


自分たちが当事者意識を持ち真剣に未来を話し合えば、そこが国会になる。いつでもどこでも可能だ。ないのは、話し合う場ではなく、単にひとりひとりの“心の準備”だけである。

どんな状態でもいい、完璧になる必要なんかない。皆、不完全であるし、未完成。完全であるかのように見えるのは完璧であろうとする心が生み出す幻影。

皆が持っているダブルサイド、有意義に使ってみませんか?



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晒すボディーとつながり

kohya_hibiki2012-08-01



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愛と優しさだけが地上の真理であれば良いのですが、命の有限性と細胞(肉体と精神)の成長限界性がある限り、地上には愛と優しさの逆説的な真理が存在します。

その逆説的な真理の本質を掴み表裏一体の真理を同時に同レベルに認識するのが”大人になる”ということですが、その形而上学的概念を失った社会に対してそれを求めるのさえ困難であると感じます。

それを取り戻すこと、そのレベルを求める期待さえ、欲望となりますから、時に私たちは”つながり”という自我や真理を超えたメロディ(流れ)に身を委ねることも必要です。




思考があるがゆえの苦しみ



自我があるがゆえの苦しみ



欲望があるがゆえの苦しみ




すべて認めてしまって溶け出す晒すボディー(サラスバティ)

自分を捨てるという概念破棄(エネルギー観音開き)は慣れていないと意外と難しいのかもしれません。

レイキでもなんでもそうですが、エネルギーワークの基本は溜め込まないで”流す”ことが基本です。

サーフィンやカヌーも全部同じ。

より大きいエネルギーを扱えるようになるためには、この”自分晒し”の状態に如何に早く、如何なる状態でも入れる精神状態を維持しておくことが何よりも重要です。

シャーマニズム用語ではこれを”トランス”と呼びます。


”涅槃”とは手に入れるものではなく、捨てた結果、舞い込んでくるものであり

”修行”とは認識を獲得していく行為ではなく、捨て去った結果、湧き上がってくる人間本来の力であり

”発心”とは自分のネガティブさを晒したときに初めて始まります。



秦 基博 / 僕らをつなぐもの



oh sole sophia

kohya_hibiki2012-07-19



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この不安定の中にこそ哲学性の輝きがある。

それ自体が美しい。

書くこととは何か?やはり書くことによってしか内奥を表現できないのか。


皆と喋って高まるのは“調和力”という女神性。一方で誰かと喋り、自らを秘匿した時に“哲学力”という男神性は高まる。

書きたいという衝動は秘匿から始まり、書けないという不精は開放に端を発する。


いつから裏取りをしていなかったか?記憶がないくらい本気シャーマニズムから遠ざかっていた、墜ちることもなかった。

否応ない不安と孤独が襲ってくる瞬間もあった、単なる接続切れ。


だから皆が接続を欲するのかと今更ながらに気付いた。

自信と不安、目に見えないが表裏一体。不安を埋め合わせてくれるパートナーシップは必ずある。だから、不安さえも楽しまなければならない。


それが冒頭の不安定の中の美しさ。泣いて笑って怒って哀しむ、全部必要な不安定さ。

死んだのではなかったのか、私の中のオグマグレイブ。ケルトの言葉神、墓場の象徴、カラスのミサキ。

オグマを最高位に膨張させた小野矢彦は何を示しているのか?銅鐸ではない、あそこには鉄鐸がある。銅と謂えども見た目は“金”


鉄は“銀”


銀座、銀行が気になっている。銀は金のウシトラに近い。うしおととらなんていう漫画もありましたが牛と虎の組み合わせは、春から行った京都巡礼のテーマのよう。

マネーの虎などというのもありましたが、やはり金。そういえば以前、マレーの虎について書きました。書き始めると繋がり過ぎて消耗が激しくなります。


しかし、こんな不安定な社会の中で接続することによって不安や孤独を払拭することができたら、それは有意義なこと。


つながると楽しくなります。それは基本、日本神界がウズメの無茶振りで始まっているからです。

第一、“米”という字を分解すると八十八、だから米をつくるのには八十八の手間がある。ということ自体がムリムッチャクの無茶振りだと思います。



寄り添う愛

kohya_hibiki2012-07-18



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深く寄り添うことは“肯定”

赦すことも“肯定”

やってくれたことに暗に行動を返すのも“肯定”


人間は自分という存在を認知してもらいたいがために生きている。言葉だけではない認知の肯定作業。

日本独特の“察し”と“思いやり”、最近では死語になりつつありますが、無言の肯定作業の拡範装置。


陰で無言の肯定作業を行っても都市生活者は気付かないことが多い。それがなぜなのかは専門で調査してみないと断定はできませんが、幼少の頃、自然に抱かれた経験がないことがひとつの原因になっているのではないかと思います。

夜、カエルの声の中で寝る快感。見えない無数の生き物たちによって生かされている自分。言葉はないが無言の肯定で自分を支えてくれたあの日。

その肯定者をいとも簡単に破壊してしまうものたち。それが自分たちの首をしめることになるとも気付かない。必死になって自己肯定を求めてビルの間をさ迷う。

それはまるで記憶喪失。


我々が古代より培ってきた環境。利便性だけを求めて潰すだけでは代償のほうが大きい。

カエルの声、そこにある

本当の認知、ありがとう

支えてくれたものたちの陰の認知



主張しあうのではなく、深く寄り添い合う愛。

同じ方向を見ているからこそ説明がいらない愛。

知ろうとすることこそ愛。

“知”はSOPHIA

フィロソフィアによって寄り添う愛。

サルトルボーボワールの愛

鼓舞し、さらに深い哲学性へと誘ってくれる愛

カエルという純粋な彼方へ



純粋な魂を求めて 〜 光りその中に 〜

kohya_hibiki2012-07-17



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何度裏切られても信頼してあげたいという想いはどこから湧いてくるのか

それこそ天真名井であり、無限の泉。



無償の愛とは見返りを求めない愛と一般的に定義付けられる。

確かに幼少時代に傷ついた人々を癒し続けるには、見返りを求めない愛が必要。

しかし、その見返りを求めない愛が枯渇する時がある。



無限の泉があると信じ、そこに動物たちは集まってきていた。

しかし、ある時、その泉は枯れた。

動物たちはその枯渇を嘆いて、別の泉へと旅立った。

しかし、人間はその枯渇の原因を調べて、とうとうその原因を突き止めた。


そう、それは生き物たちが真名井を求めすぎたことにあった。

一時的な枯渇に過ぎない、、、と人間だけが学んだ。


その後、人間たちは奪い合うのではなく、分かち合って、助け合って、水を頂戴するシステムを作った。

その日本人の知恵は今でも生きている。愛と水は本質的に同じもの。



見返りを求めない愛を無償の愛と呼び、水を奪い合うのは動物たちのすること。

日本人は、頂いた水に対して感謝とその聖域を守る行動、そしてそこが聖域であることを証明する賽銭を捧げてきた。


頂いたエネルギーには”ありがとう”、言葉を言えない人は行動で、それさえできない人は賽銭で



今の自分があるのは誰のおかげか



認識をくれた人には感謝を捧げ

力を貸してくれた人には力を返す

お返しの文化は日本独特のもの



自分が潤っていれば分かちあう



当たり前のことが当たり前のように行われる世の中に戻したい。

愛してくれた地域社会、愛してくれた両親、愛してくれた親戚の方々。。

そんな普通の生活、普通のあり方に戻る。

受け取ったからこそ還したい想い。




尽くしても愛してもブラックホールのように吸い続ける人たち

確かに籠神社奥の天真名井はブラックホールだった。

愛とブラックホールは表裏一体、底でつながっている。

愛さなければいいのか、それとも愛する対象を間違っているのか。

すべては運命



オーラソーマカードは『報われない愛』

当たっているが嘆きはしない。

運命を受け入れ、進むしか道はない。



生き方を知ることが愛であり、生き方に添うことが愛するということ。

生き方を知ろうとされないことは虚であり、生き方に添われないということは
愛されていないということを実感すること。



私のところにご連絡をくださる方は、やはりこの『報われない愛』のご体験をされてる方が多い。

尽くし過ぎているがゆえの悩み。エネルギー枯渇。

自分勝手、我田引水、傍若無人系のエネルギーと長年付き合っている人々の懐は深い。

やってあげてるではなくやらせて頂いている、のスタンス



この国の行く末、あなたがたのものではないか。。



この国から失われた『忍耐』という2文字。今となっては珠玉のストイック。

ストイックが好きだ、という方もセッションに来られる。お若いのにすごい。頭が下がります。

世の中は、我こそは神の風潮、控えめ・謙遜・譲歩は隠された美徳。

徳とはバランス、奪っている状態では決して認識しえない概念。



日本の美しさ、分かち合う心、助け合う人々

頂いたものへの倍返し、あ〜日本の田舎、美しすぎる僻地



裏切り、白きり、傲慢のない美しい人々と

立て直す日本



純粋に 我田引水なく プロパガンダなく

ただ アキツシマとともに

花鳥風月を詩にし 畑を耕す日々



家族を愛し、両親を愛し、祖父母を愛し、地域社会を愛する昭和の記憶

取り戻せるのか わたしたち

奪い合っている以上 任されても結果は見えている



やってもらったことには ありがとう

それがすべてのはじまり

幼稚園保育園のときに習う 根源的言葉



言霊の国 やまと

難しいことはなにもない

互いに思いやる未来



貧しいけれども 美しい人々

持たざるもののほうが 美しい

西へ 西へ 美しさのほうへ

純粋な魂を求めて




奪うエネルギー与えるエネルギー

kohya_hibiki2012-07-15



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エネルギーを奪う人々は、大抵、自分が他者からエネルギーを奪っていることに気付きません。”怒り”や”泣き”とは、その奪われたエネルギーに辻褄を合わせる感情表現です。

気付かないが故に自分の周りで起こる現象に対して“なぜ私はこんなにも不幸なんだろうか・・・”とか“幼少時代の記憶が同じものを引き寄せる”とか様々な理由をつけて、現象の原因を外側に求めます。

この個人レベルでの問題はそのような場合、常に自らがエネルギーを奪っていることに原因があります。

社会レベルの問題も同じであり、社会全体として子供たちのエネルギーを奪い続けている現状に対して客観視を厳しく求める姿勢は続けていかなければなりません。

感情体は思考よりも合理的な動きをします。

エネルギーを奪う人々は、エネルギーを奪われた過去を持っています。

その過去がエネルギーを奪う現実を生み出し、目の前にいる他者からもエネルギーを奪い続け、その人のエネルギープラットホームを“奪う”OSに転換させます。


優しい男性が突如として“キレ”はじめる裏には必ず“エネルギーを奪い続ける女性”が存在します。


私たちの親の世代までは、女性が男性に“自由と尊厳”を与え、男性が女性に“愛と優しさ”を与える最も基本的な循環のパターンが認識されていましたが、現在では皆無でしょう。


ある自動車会社の社長夫人が『旦那さまに自由を与えることが私の責務』と言っていましたが、まさにこの女性ありてその社長ありという感じでした。

私たちの世代では望むべくもなく、『なぜ私が男に自由を与えなきゃいけないの』と逆ギレするパターンがほとんどですが、

(ただ、逆ギレして男性とは何か?女性とは何か?自由意志とは何か?を10年程問い続ければその逆ギレのクンダリーニは悟りに変わります)

私のところにご連絡を下さる方を含めてエネルギーを理解している方、理解しようとしている方は、この現実を意識的に取り組み結果的に社会変革の礎になる人が多いです。


最も基本的なエネルギー原理を知るのはエネルギーセッションとは何か?を知る行為であり、何がそこで行われているのかを知ろうとしなければ、自分たちを取り巻く社会的な問題も見えてこないということになります。

”自由を与える”というのは感謝であり、信頼です。なんの経済的価値を生み出さない聖域を守ることもご先祖さま方々に対する感謝と信頼です。

その聖域をいとも簡単に潰してしまうこと、人間として基本的なエネルギー認識ができなくなったことは同じ”根”を持った問題です。

自殺者3万人の現実の裏にはこのような問題が潜んでいるということにも私たちひとりひとりが目を向けなければならないと思います。社会的な問題に興味がない方はあまり知らないかもしれませんが自殺者の年齢が最近顕著に低くなってきています。政府答申では今でも経済的事由をその筆頭にあげていますが、全く的外れであり、根源的事由はエネルギーを“奪う”OSに社会がなっていることです。

この問題に取り組むために日本のスピリチュアルは立ち上がってきましたが、本質を理解しないでそれを模倣するものたち、その模倣するものたちを批判するものたちがたくさん出てきており、はっきり言って邪魔です。スピリチュアルや精神世界系は芸能界ではないので、日々人々を救うという本質性だけに専念して頂ければと思います。

社会学的見地から申し上げても経済的事由が自殺者3万人超の現実を生み出しているとは考えにくいです。SPEEDIの予測結果を全く活用できなかった官僚機構をわが国は持っていますから、正しい社会学的見地で社会問題を解決していくことができるはずもありません。我々、ライトワークの民間人がしっかりとしたエネルギー認識を持って問題にあたっていく必要があります。

このようなスピの市民的活動はメディア一極支配にとっては邪魔ですから、メディア政府関係者から賄賂を受け取り、スピ市民活動の芽を潰していくという流れも出てきていますので注意が必要です。

特にメディアと結託し、なんの社会的活動も行っていないのに(情報発信をするのだけは大得意)、スピ批判だけを日夜繰り返している人たちは要注意です。裏で闇の勢力が動いている可能性は大です。


日々、癒しの活動で癒しを求める方々に癒しを提供している方々は本当にお疲れさまです。メディア一極支配を打破し、政府構造を変えることができれば毎日量産し続けられる”人々の傷”をストップすることができるので私も日夜頑張っております。これからもどうぞよろしくお願い致します。





神社に参拝するということは、感謝・賽銭・行動の三位一体を同時に成し遂げることでもあります。

人間関係において賽銭を求めることはできませんから、頂いたエネルギーに対しては感謝と行動を返すことが何よりも大切です。

しかし、現代社会においてはいくらエネルギーを受け取っても感謝と行動が出来ないひとたちがいるのでエネルギーセッションというものがあります。何にお金を払うのかを知ることによって基本的なエネルギーの在り方を学ぶことができます。


個人的な関係においても、相手があまりにも“奪うエネルギープラットホーム”を持っており、『やってくれて当たり前』というような人の場合は、奪われたエネルギーに対して金銭を要求することもお勧めしています。

そうしなければ“心優しき”方々は自分を守り通すことができないほど“やったもん勝ち”/”言ったもん勝ち”の世界になっています。勝ち組・負け組みと以前は揶揄されましたが、それよりもひどい現実へと進んでいることに私たちは気付かねばなりません。


大切なものを取り戻したい方、失った過去の充足感に郷愁を感じている方などはぜひぜひご連絡くださいませ。



水流れる。

kohya_hibiki2012-07-14



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皆、頑張っている。

エレメント『火』の浄化は時に必要。しかしそれを使い過ぎると自らが滅びる。
獅子のエネルギーはその“時”と“場合”を嗅ぎ分ける金のエナジー

多くの人は『火』を好まない。身の危険を冒してまでライオンを調教したいと思う人が少ないように。


獅子のエネルギーを操るものは選ばれし者などではなく、自らが自らの責任において“選択”をした者だけ。

攻撃と守りは両方が必要。フォワードが点を取れない、ディフェンダーが守れない、ではサッカーが成り立たない。
人間の内部に渦巻く火と水のエネルギーにも同じことが言える。

守ることは攻撃につながるし、攻撃することは守りにつながる。男女関係もその他の関係も同じこと。
どちらか一方ではなく、両方が必要。


守りに徹し、攻撃をしかけなければ試合そのものの意味がない。
攻撃に徹してカウンターで点をとられ過ぎてもなんのための試合なのかがプレイするほうも観戦するほうもわからない。

あらゆる勝負は、この内面の火水(カミ)バランスを知るために、実は行われている。

そのエネルギー原理を抽出したものがFEW(FIVEエレメントワーカーズ)

サッカーの試合は90分間行われますが、剣の勝負ならば一瞬で答えが出ます。真剣なら負ければ命を落とします。


弥生時代から我が国はそのような真剣勝負をする侍層によって支えられてきました。
武士の誕生は平安末期ですが火水エネルギーの真剣勝負は少なくとも弥生時代には遡ることができます。

二見ケ浦の神石は、それら古代哲学性が究極的にシンボライズされたもののひとつです。

それを哲学的に理解しようとするのか、それとも素通りするのかで日本人に生まれた喜びや意味の認識に大きな差異が生まれます。

与えられた命は同じであるのに歓喜の度合いが違うのです。


自らの内側から沸き起こってくる無限の日本列島パワー。真実性と本質性にエネルギーの終わりはありません。

なぜならそれらは常に形を変え、森羅万象を駆け巡っているからです。


攻撃と防御は住吉大社の門神ともなっています。

“戦い”とは何か?それは古代大和では“調和”を意味するのです。