クナトの神はエネルギーの分岐点


自信があることと傲慢になることは同じではないことを日本人は無意識的に知っています。

また

自信を持つこと・・・・善いこと

傲慢になること・・・・あまり善くないこと

と一般的に理解されます。

では、その判断基準、あるいは分岐となる思考はどこから発生してきたのでしょうか?


これこそ『サ・ニ・ハ』(ジャッジメント)なのです。

古い神様で言えばクナト神wikipedia:岐の神が、この分岐点を表します。

クナト神は後に道祖神やサルタヒコと習合して道が分岐するところに祀られるなどしました。

分岐とは「岐(クナト・フナド)の分かれ」という意味です。

このクナト神こそ日本的な神様で、同じエネルギーでも大きさによって善にも悪にも転じるということを教えてくれる神さまであり、世界にとって今、最も必要とされている神さまでもあるでしょう。

現在、世界では金融市場の暴走から、資本主義そのものに対する不信感が募っていますが、資本主義そのものが悪いわけではなく、資本主義をサニハできていないことに問題があるのです。


ですから私は、暴走し始めたエネルギーにはジャッジをしなければならないということを言っていますが、自分自身を他者と比較し、ジャッジしてしまう傾向の強い人はもちろんノン・ジャッジでなければならないでしょう。誤解される場合があるので再度、書いておきますね。

自分を裁いて自信を持ててない場合は、クナトの分岐までは来ていないので、ジャッジせずにすべてを受容するノン・ジャッジでかまいません。

問題はそれ以降のことで、自信を取り戻し積極的に自分の哲学を社会に向かって発信していくときに、その情報発信が自分だけを利するひとりよがり(傲慢)なものになっていないかをサ・ニ・ハする必要があるということなのです。


クナト(来なと)は未だ方言でも残っているように「これ以上来ないでね」という意味です。傲慢のほうに来ないでね、と目を光らせているのがサルタヒコ(ミカエル)なのです。なぜならあちら側はダークサイドに転じるエネルギー。


自信をつけてクナトから極限にアセンションするとそれは誇り(鉾の理)になりますが、クナトを通り越してあちら側に落ちてしまいますと、傲慢→自己陶酔に陥り、かなりの確率でクナトのヤチマタまで2度と這い上がってこられなくなります。

このような原理を知らずに、どんどんあちら側に落ちていく人たちが大勢いたので、ジャッジメントの記事をずっと書かせてもらっていました。


ですから他者と比較し、自信をなくしてしまっていた人たちはこれまで通り、自分だけを信じてサルタヒコの行燈でクナトのヤチマタまでお進みください。

クナトまでたどり着いた場合は、自分自身がサルタヒコになり道を照らしてください。重要なことはノン・ジャッジを大々的に宣伝することではなく、迷っている人たちに何も押し付けないことこそが重要です。ノン・ジャッジで救われる人もいるし、ジャッジで救われる人もいるのです。

ただ、クナト神に到着した時点で善悪の判断ができなければ、誇りへとは昇格せず、傲慢→自己陶酔へと転じていきますので気をつけないといけません。

サニハは個々の人格を裁くものではありません。エネルギーがダークサイドに落ちてないか正・邪の判断をするだけのことなのです。

これはなかなか難しい領域のことでもありますし、サルタヒコや道祖神に対して深いエネルギーリンクと認識がないと判断ができにくい場合があります。


響の個人セッションでは、これらのニハ(正邪)の判断を行っています。またこの判断能力を踏まえた養成講座も実施しています。

最近では、聖地巡礼が一般化してきておりまして非常にハイレベルなメッセージを受信をする方たちが増えてきておりまして、感じているエネルギーと祭神や祭祀が合致しないというところにまで到達し、ニハの判断を迫られる状況が起こっているようです。


私自体は、お客様が受信したメッセージそれぞれの判断は基本的に行わずに、お客様自体のエネルギーがクナトのこちら側かあちら側にいるのかで判断させて頂いていますので、どうぞご安心してお問い合わせ頂ければと思います。

お医者さんが個々の人格を裁かずに臓器だけを裁いているように、サニハも個々の人格を裁かずにエネルギーだけを裁いています。ただひとつ違うのは臓器は目に見えますが、エネルギーは目に見えないということだけです。

しかし、しっかりと訓練をつめば簡単にわかるようになります。スピリチュアルとは本来、そういう有意義なものです。